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■日頃、発行している「せたがや1/52」の総集編を2月28日の読売・朝日の両紙に折込■ちなみに1/52とは世田谷区議の定数52の中の1人という意味。次期からは1/50■ 1人でも多くの区民の皆さんに世田谷区のことを知ってもらいたい。今回はこれまで4年間の中から特に反響の大きかった記事を再掲して加筆。また新年度予算についても最新の内容を加えた■ダウンロードはここから
■朝日新聞の統一地方選シリーズで『行革110番』が今はやりの地域政党として扱われていた(2月27日付)■ある意味「税金の無駄使い」追及の先駆的な存在であるのだろう。もちろん世田谷区が発祥の地である。
■この時期、立候補者説明会が選挙管理委員会によって行われた。参加者は84人。会場は立錐の余地もないくらいの混みよう■定数を50にして逆に予定者は増えたようである。理由はわからないが、23区最大の激戦区になることは必至だ■
■統一地方選が近づいて新聞各紙も様々な特集を組み始めた。特に朝日は全議会調査を行い精力的な記事内容となっている■しかし全国1797の地方議会から浮かび上がる議会像というものと、世田谷区議会の現状について違いがあるのも当然である■もちろん世田谷区議会が全部において優れている、と述べるつもりはないが、誤解されるのも不本意でありこの際、朝日の問題点にそって実状を述べてみたい■まず、記事の標題にある「議会の半数議案丸のみ」について。確かに世田谷区議会も今期、修正、否決となった議案はない。(私も反対した議案が賛否同数により議長裁決で可決された議案があったが・・・)■ただし「丸のみ」という言葉の印象のように全員賛成ということではなく、それぞれ修正案なり反対があっても幾通りの組み合わせがあるのが実状である。決して“素通し”ということはない■それでも修正、否決議案がないことは世田谷区議会としても事実である。しかし朝日にも考えてもらいたいのは、議案提出者である区長(市長)側が果たして可決される見通しのない議案をそう簡単に出すだろうか、という視点である■世田谷区では重要案件については、その作成プロセスにおいて代表質問・一般質問で各議員(会派)が考えを述べる仕組みになっている。作成プロセスも短いのもあるが、だいたい1年ほどの準備期間があると言ってよい(個人的な感覚だが)■その過程で区長側も議会の動向(票読み)がわかる。それによって議案提出を区長(市長)が判断しているのが実状であろう■つまり議案はその作成プロセスにおいて議員は賛成も反対も修正も含めて参加しているのが実状であり、本会議で議案採決の部分はその最終部分である■誤解を生じやすいのは世田谷区議会の場合、議案というのは本会議で区長から提案されてから初めて内容を議会が知るということではない、ということである■イメージからすれば提案されて初めて議会が内容を知り、それから各会派が吟味して様々な意見や、修正案を出すというように考えがちであるが、そうではない■さらに区長(市長)提案の議案といっても国の法律や政策によって変わる条例改正等の議案については実際のところ“素通し”の部分はあるが、これは仮に否決しても何も変わらないからである。国の法律優先で形式的に条例を合わせているからである。
■記事によれば宇都宮市では議員の本会議での質問回数を制限しているとのこと。世田谷区ではそんなことはない。每定例会ごとに質問時間10分答弁も約10分ということで往復20分間ある■10分というと短いと思うかも知れないが質問原稿を精査すれば相当の内容の質問は可能である■昔は世田谷区議会でも1人持ち時間答弁も含めて30分という時代もあった。しかしダラダラとウケ狙いの世間話から始まって、25分間も壇上でしゃべり、残り5分しかなく答弁切れということもあり現在の形に改正された。当時は世田谷でも任期中に1回も本会議で質問しない議員もいたことは事実だが古い時代の話である■現在の世田谷区議会では每定例会ごとに代表質問の時間割り当てを除いて全員が質問をしている。3日間かかる■記事によれば宇都宮市では政策条例を提案した議員はいない、と書いてあるが、これはたぶん「意見書」の類が議員提出議案にカウントされていることを言っているのだと思う。つまり宇都宮市では「意見書」しか議員提案で出していないということだろう■翻って世田谷区では選管委員の報酬を日額に改正する議案ほか様々な改正条例は議員提出で出されている。ただし可決されたのは議員定数削減条例だけである。もちろんこれらを指して政策条例とは言えないが、23区の場合、いわゆる23区一体の論理という特殊事情もあり、普通の自治体と異なる面がある。それを指して能力不足と言われればその通りだが■議会広報での議員個人の賛否については一覧表にはなっていないが、会派の賛否は掲載されているので間接的にはわかる仕組みになっている。毎回質問者の質問内容を掲載するスペースとの関係という問題になる。議員の議決態度をことさら隠すことなど世田谷区議会ではあり得ないし、各議員が個別に区議会報告で積極的に公開している状態である■政務調査費については23区でもトップ級の月額24万である。これは議員1人当たりの住民の数がトップであることから判断願いたい、としか言えない。ただし、その使途領収書は1円単位ですべてインターネットで公開しているので多くの区民がチェックできるシステムとなっている。たぶんここまで徹底的にやっている区議会は全国で世田谷区だけだと思う■次にお隣の杉並区の例をひいて主義主張の一貫していない議員の姿勢を批判しているが、これが事実とすれば理解不能。また民主、自民の区議が合体して会派を結成したのも極めて異常なこと。少なくとも全員無所属になって会派を結成するならともかく、民主区議と自民区議が同じ会派というのも、理解不能■岡山市では議員の賛否が不明のようだが、これも世田谷では理解不能。
■朝日の調査によると、議員1人あたりの住民数は市区では世田谷区が一番ということである。これは議員の数が少ない、スリム議会ということである■さらに世田谷区では昨年に議員定数を削減したので今春の統一選後には定数50となり、もっとスリム化される■それでも区民によっては50人でも多すぎるとの意見を少なからず耳にする■もちろんその背景には議会なんて入らないという思いも働いているのかも知れない■また大選挙区制ということも区民からすれば理解しがたいのかも知れない■例えば政令指定都市のように世田谷区内を5つの中選挙区に分ければ一つの選挙区の定員は10名ということになるのだが・・・■一方で昨年の議員定数削減に反対する会派の意見として、議員数を減らせば多様な民意の吸収が阻害されるという考え方があった。一面の真実であるとしても現実的には入口の議論でしかない■議員定数を増大させても大会派が増大するだけであり、議員1人の権限は縮小し、仮に多様な民意を吸収できてもどこかの会派に属さない限り意見の表明さえ困難になる(極端な例で言えば定数50の時の一人会派の権限や発言権は定数100となると二人会派にならないと維持できない。しかも二人の意見のうちどちらの意見に集約するかで残された意見は後回しになる)■現在の世田谷区議会では議員定数を削減する度に一人会派は増大する傾向にある。非交渉会派の議員数は11人で全体の2割を超えている■では、どこまでスリム化すれば良いのかというと、誰にもわからない。(定数50から半減の25という極端な考え方もあり、そうすれば一人会派の権限は倍増するはずだが、今度はそれ以前にそもそも一人会派が当選するかという問題も出てくる。定数が極端に減ると組織選挙でしか勝てない。都議選が顕著な例で世田谷選挙区からは組織のバックがない議員は当選していない)削減案の一つの裏付けとして、過去に世田谷区議会としてその数でやったことがある、という経験も重要な参考要素である。それは死亡や議員辞職、或いは都議選への立候補等で欠員が生じたまま世田谷区議会が続く場合の経験をさすが、極端に支障が起きていなかったというものである■もっとも数だけの問題ではなく、たった1人の議員の不祥事で議会機能が低下することもあれば、頑迷な古参議員が大会派にいるために動かないということもあり、人的資質の問題は各議会様々な状況もあり、同じ人口で同じ議員定数の議会であっても全く異なるから数だけの問題ではないことは明らかである■朝日の特集のなかでも触れていたが今後、民意の吸収という役割は住民投票やインターネット環境での意見の集約等がクローズアップされてくることは間違いない。
■朝日の定義する「ダメ議会」の基準とは「丸のみ」「無提案」「非公開」の3つである■一議員の立場から言えば、議会の活性化という本質的な問題は、会派制にたどりつく■会派制というのは行政側にとって実に都合の良い仕組みである。行政側の最大の目的は議案の可決であるから議会の過半数となる会派を基本的に押さえておくことは至上命題となる■通常は最大会派を主軸に据えて足し算をする。最大会派は議会運営の要の職を占める場合が多いからである■もちろん足し算といっても会派の肌合いが異なる組み合わせは避けられる。が、近年地方自治の場合、国政と異なり絶対的な違いということは少なくなりつつある■結果、行政側が過半数の協力を取り付けられれば(取り込めばとも言えるが)、その過半数を構成する会派の組み合わせで、ほぼ議会の“運動範囲”が決定される■一見当たり前のようであるが、実は会派の中の議員は個々に反対の議案があってもそれを事実上行使できないようになっている。会派の駕籠に閉じこめられている。おそらく1人だけ反対するなら会派から出て行けというような無言の圧力がかかるからであろう。会派での活動しか知らない議員としてはなかなか踏み切れない。ましてや会派イコール政党というところでは次の公認問題にも関係してくる。このことを会派の“規律”と見るか多様な民意の“排除”と見るか難しい■一方、会派としても行政との関係で一枚岩となれないと足元を見られるというデメリットもあり、それは過半数を構成している会派同士さえも共同体化していくことにもつながっていく。過半数共同体が崩れれば、それを構成している会派及びその構成議員のデメリットなるからである■このように議会の過半数共同体のようなものは、その根源をさかのぼれば明らかに行政側の必要性から生じたもので、議会が自発的に作ったものではない。(現在でも実際、行政側の取り込みの“技術”は当選したばかりの新人には至れり尽くせりから始まるのだが・・・)■取り込まれた議会側の過半数共同体としても、やっているうちにこりゃいいと、自覚したことで、過半数共同体を維持するメリットが議会と行政の共通価値観となり、さらに相互依存関係となっていったものと思われる。今となってはそれが自然で、誰も意識しないこととなっているが■こういう経過をたどれば、議会の過半数共同体なるものが、行政提案を、まるで丸のみのように見える対応をすることは必然ともいえる■その点、会派制という囲いを解いて、全員一人会派になれば活性化は図られるかも知れない。が一番困るのは行政である。“票読み”ができない。議案ごとにそれこそ離合集散が繰り返され賛否が分かれる。それこそ議員自身も自分の賛否がどのような結果として議会で表れるかハラハラドキドキである。まさに緊張感は高まる■そうなれば行政は一人ひとりを取り込むしかなくなる■ここで行政が取り込むということはどういうことか考えてみたい。取り込むといっても、悪意が存在するわけではない。その目的は行政側の議案通過であり、その議案というのは行政或いは役人が住民福祉のために考えたものであり、簡単に言えばそれはそれで正義の実現ということであり、強い自負を抱いている■議員には根本的に“弱点”がある。議員は正直なところ、議案を取り巻く法体系や隣接条例の知識など欠けている場合が多いし、細かい国の政令改正など情報そのものが入らない■ここに行政と議会側の情報の非対称性が存在する。その結果、議会は実務に疎いという状態からスタートせざるを得ない■例えて言えば、うまい料理の品評は出来ても料理は作れない、という状態に似ている■現実には議員は役人に様々な情報を尋ねることから議員としての能力を高めていく。うまい料理を出す店主にそのレシピを尋ねるようなものであろう■しかし限られた時間の中で料理の作り方の話をいくら聞いても料理を実際に作れるようになるとは限らない■そこに議員の分岐点があるように思う。一つは餅は餅屋ということで行政依存型でいいやと思うコース。良心的に言えば依存しながら注文をつければ良いというスタンスである■2つ目はあくまでも自立し行政から卒業してオーダーメイドの政策を実現するコース。具体的には、行政とは独立した政策能力のある人間を自ら抱えること。即ち議会事務局を完全に行政から独立させることである(議会事務局の公務員は区長の部下であって、それが一時的に議会に“派遣”されているのが現実である)■現状では前者が大半であり、それでも後者を考えている議員も少なからずいる■ネックとなるのは、議会事務局の独立という問題。新たな議会費増につながりかねないし、現状では住民の理解を得るのも難しいだろう。また職域が限られるという点もある。それがクリアされても今度は事務局依存という状況に陥らないかという、最初の問題に戻ってしまう。それでも行政依存とは異なる切り口から政策をぶつけることは可能かも知れないのだが■議員側の行政依存と行政側の議会取り込みという目的がある以上、一体化は防げない■行政依存という言葉は様々な言い方に置き換えられる。行政への信頼とも言えるし、議会と行政は車の両輪とも、議会の協力なしでは行政は進められない、とも■かと言って議会と行政がことさら対立する必要はない。
問題は議会にとって最大の議案である予算案についてどういうことになるか、ということである。会派制なら行政が協力を取り付けた過半数共同体の要望をメインに考慮すれば良かったが、会派制の囲いが解けると一人ひとりの議員のどこまでの要望をメインにすれば良いか不明である。議案の賛成には無数の組み合わせがあるからである■そうなると過半数以上の、さらにはほぼ全員の要望を考慮せざるを得なくなってしまう。予算は際限もなく膨張する可能性もある■予算肥大化、予算冒頭について、議会は無力である。なぜなら自分の要望を聞いてもらえるなら、考え方が多少違ってもあの人の要望も聞いて当然ということになるからである■ましてや議員は4年任期だから言いたいことだけ言って実現させて、その後の後始末もせずに消えてしまうことだってある、と行政は自分たちの事を棚にあげて本気で危惧する■確かに現状の選挙制度では社会経験すら未熟であって、仮に偏った判断の持ち主でも85万区民の生活に関する予算を決める立場に就けるのだから行政としても不安であろう■そうなると、今のような財政難の時期には、会派内、会派間で自制が働き易い会派制、行政側からすれば“分割統治”の方がベターということになる■現状のところ、行政対応は会派制、議会改革は全員一人会派というのがベストのような気がする。それは改革の機運は常に少数派からあがるからであり、逆に行政対応での過半数共同体では現状に満足しがちだからである。その切り分けが議会自身わかっていないのかも知れないのではと、個人的には思っている。
■今日の日経新聞に行政委員の日額制についての記事があった■世田谷区議会では、選挙管理委員について日額制にすべきと主張し、すでに議員提出案を出している■行政は改正に絶対的に反対しているわけではなく、あくまでも最高裁の判決を待ちたいという様子見である■自民、公明他の会派も区側とスタンスを同じにしているようで、なかなか可決に至らない■ここで問題なのは政治の判断力である■行政が司法判断を待つのは遵法義務から理解の範囲としても、政治の判断基準は、違法性の有無だけにとどまらない■月に3回程度、実質30分程度の会議に出るだけで23万から28万円も貰える仕事が税金で賄われている。このことを役人が(今のところ)問題ない、と言ったとしてもそれは法的な解釈を述べたに過ぎない■それがそのまま世の中で通用するとは限らない。世の中で通用しないことを放置したり、怠っていたりすればいづれ選挙・投票という民意によって審判が下るだけである(ただし、このことが知れ渡ることが必要だが)■一方、役人は違法性の有無だけに気を配って仕事をすれば常に安全圏にいられる仕組みになっている。例え世の中で通用しなくとも、である■このことを履き違えて、役人憑依(或いは役人目線)で議員が物事の判断をしてしまえば、役人と違って安全圏から放り出される■そういえば、どこかの“大物一兵卒”氏は法的には問題はないと主張しているが、その言い方は役人の論法そっくりである。おそらく違法性は少ないのかも知れないのだろう、だからといって安全圏に踏みとどまれていないのは彼が政治家だからである■さらには驚いたことに、その“大物一兵卒”氏を世の中で通用しないとばかりに懲らしめていた“上司”が今度は役人憑依してしまったから国政は、大混迷である■政治家として判断すべきところを、役人の合理性でやろうとしている所が最大の原因である■政治家が役人憑依で仕事を始めたら破綻は見えているし、精神にも良くない。すでに変調は党首討論時の異常な瞬きとかに表れているらしい■何かとんでもないどんでん返しがあるかも知れない。
■野党が対決姿勢を示したことで、菅首相はいよいよ、解散か総辞職を迫られる■左は4日の日経ベタ記事。解散なら4月24日投票で統一地方選と同日選挙となる■地方選とのダブルなんて前代未聞。えらいこっちゃ!
■国会論戦を見ていると「歴史への反逆」という言葉が取り上げられている。しかしこの言葉って何だ?■有名な言葉なのかと思って調べてみたが見あたらない■となれば「反逆」という語感が単に刺激的だったということだ。おそらく「歴史への」というのは「国民への」とか「国家への」というメタファーのつもりなのだろう■しかし権力者が刺激的な言葉を使うのは、「恫喝」の類である。そして同時にピンチの極みともいえる■論理的に行き詰まった末に権力者が行うのが恫喝であろう。すでに予算案が通らなかったらどれほど国民生活に迷惑が及ぶか調べさせているという■そんなことなら予算審議そのものが「歴史への反逆」ということだ。中身で勝負ではなく、言うこと聞かないと困りますよ、というのはまさに崖っぷちということ■国民は菅氏が1年前の小沢邸新年会で、乾杯の音頭までとってご機嫌を取っていたことを覚えている、また鳩山内閣が沖縄問題で行き詰まっても、平然と副総理でありながら無関係を装いながら逃げて、総理のイスについたことも覚えている■それもこれも総理になるための便法という見方もあったが、残念ながら今となっては菅氏の本領だったとしか言いようがない。それが今行われている国会論戦で日増しに明らかになっている(菅氏はほとんど他党から信じられていない様子がありありと。信じたのは与謝野氏だけのようである)■さらに予算審議が進むにつれて、民主党の政策が菅氏によってどんどん後退されていく。つまり民主党の論理的な部分を次々に廃棄しようとしているのだ■実はこれは民主党内にとって一大事である。まるで日産の社長がわが社でトヨタの車を売ってもいいと言うようなものである。さらに場合によっては日産の車を生産中止にしてもいい、というようなものである。日産の社員は驚くであろう。そしてそんな社長をクビにするか、いっそのことトヨタに転社するだろう■トップというのは常に前進を強いられる。なし崩し的に後退すれば、組織は崩壊するか、一致団結してトップを追放するかである■新聞報道では強制起訴の被告人をめぐる人間関係や与党、野党の構図しか見えないが、民主党の底流では異なる化学変化が起きつつあるのではなかろうか。果たして「民主党の反逆者」は誰なのか?いずれ3月にわかるだろう。
■仕事柄、国会の予算委員会をまとめて録画して早回しで夜中に視聴しているが、菅首相のひどさが日増しに募るばかり■まあ竹中直人氏ではないが菅直人氏の怒りながら謝るような、否定するようで認めているような、顔と言葉と心理がバラバラの答弁は国民を不快かつ不安にさせるだけである■特に経済の話になると陸に上がった河童のような表情で、幼稚園児のような強弁に終始する■わからないならわからないと素直に言えば、これほど強いものはないのに、知っているふりをするから墓穴をさらに深くする■加えて誰が聞いてもうなづけない答弁に与党席から拍手があがるのもテレビを見ている方からすれば鼻白む。もっとも参観日のパパママよろしく気分を盛り上げないと首相がもたないのかも知れないが■しかし強弁に終始する首相を見定めて、心情面から解きほぐし、論理の骨組みを単純化して矛盾を認めされるのは論戦の術である。その白眉は石破茂氏の質問だった■油紙に火をつけるようにまくし立てるのではなく、ゆっくりゆっくり諭すように人間の機微に触れつつ、自分を絶対正義の場に置かず、まさに強弁首相のとなりに寄り添うような位置から忠言のごとく質問を放つのは、一つの芸でもある■こういう全体のトーンはニュースでの切り取り映像からは伝わらない■余計なことだが石破氏はお笑い界で言えばスリムクラブのような感じだろうか■政治の言葉が軽くなると言われる中で、それを打ち破るのはやはり言葉でしかない。テンポの早さが尊ばれるお笑いの世界でもスリムクラブのスローは違う意味で面白さの極致である■政治に携わるものは言葉の復権に努めなくてはならない■ひょっとしたら、日本経済がデフレなのではなく、日本人の使う言葉自体がデフレなのではなかろうか。それにしても元首相の一言には毎度の事ながらうんざりである。