●子どもの前で、暴力を伴う夫婦喧嘩をすれば、それは立派な児童虐待となる。(2004年の児童虐待防止法改正で心理的虐待にあたると明記!)
●もちろん、子どもに隠れて、やればいいというものではない。家庭内暴力もダメである。
●こういった“包囲網”が、相談相手がいない、私が我慢しなければいけないの、という、いわゆる孤立した子育て中の親(父母を問わず)を苦しめていることは事実である。であるのでその方面の対策というのも少しづつではあるが行政はやっている。(待機児童でさえ不十分なのでそんなに強いことは言えないが・・・)
●どんな形でも暴力は暴力である。暴力は野獣であり、人類の敵である。強いて言えば、現在の日本の置かれている状況はすさまじい暴力にさらされている(面前ミサイル!)。じゃ、日本も暴力で、ということに傾いたら世界は終わりである。
●著名なトランペッター氏はおそらく、児童虐待防止法の改正など知らなかったかもしれない。それは決して落ち度というものではない。その人なりの成功人生があり、自分の人生観を培い、堂々と生き、社会に多大な貢献をした人であることは間違いない。そういう人生観の持ち主に、今時の指導の範囲で暴力はNG!ましてや面前での暴力など大変な“災害”ですらある!と情報提供するのは、実はオトナの仕事であり、教育委員会の仕事である。(教育委員会主催なのだから)
●一方で当該中学生が悪い、という議論からは何も見えてこない。当該中学生の行動が悪くないのに、意味不明でトランペッター氏が暴力を振るったのであれば、警察発表によくある「誰でもよかった」事件である。即事件である。
●さらに言えば未成年だから中学生だから問題を起こすのであり、指導が必要だから義務教育が設定されているのである。
●トランペッター氏の指導が指導の範囲を超えていた(区側は「行き過ぎた指導」と表現)部分に暴力が含まれていたことの是非である。もちろんダメである。そのことを偉大なる人生の達人氏であろうとも、理解していただくのが大人側の仕事である。つまり区長なり教育委員会の仕事。それをしていなかったツケが今回現れたということであろう。
●私たちは、ともすれば勧善懲悪型の二項対立の思考に陥りがちである。(マスコミはそこに誘導しがちである、わかりやすいイコール視聴率が取れる)
●よって当該中学生に非があり、トランペッター氏が正しい。という図式が刷り込まれる。
●しかし対立は一転し、中学生もトランペッター氏も互いに非を認め、アレは“愛情ある暴力”だったんだ、でメデタシ、メデタシということで、騒ぐのはおかしいんじゃないの。というのは、役人のいつもの考える収拾シナリオ。
●被害者も加害者も、すでにノーサイドなんだから。つまり勧善懲悪のスタイルそのものが溶解したのだから。もう、今回のことは水に流そう・・・って。いかにも役人の責任回避の見せ方である。
●その手は桑名の焼き蛤。違います。“愛情ある暴力”なら許される、ということを社会的に公認していいのか?少なくともそんな風潮を認めていいのか?ということこそが、今回の最大の問題点。そしてそれを提起したのが教育長である。
●最大の問題は、面前DVでさえ、否定されているのに、世田谷区の教育長が世田谷区の中学の生徒に対して暴力を振るわれているその場で、終了時に万雷の拍手と笑顔で看過したことである。