2013/08/05

世田谷ナンバー

「神は細部に宿る」という言葉を耳にしたことがあるが、実は行政の要諦も「細部に宿る」のではないだろうか。

 県並み、或いは県以上の人口を擁する世田谷区は、人口だけでは比べられない問題がある。価値観の多様さである。(ちなみに世田谷区より人口が少ないのは、山梨、佐賀、福井、徳島、高知、島根、鳥取の7県)
 例えば、山梨県の人口に占める他県の出身者と世田谷区における他自治体からの出身者の割合を想像してみよう。(たぶん)おそらく世田谷区では全国の県人会は存在するだろうが、上記7つの県ではどうであろうか?

 つまり世田谷区の人口の多さはそのまま価値観の多さにつながる。世田谷区という都市は価値観の多様さを受容しているとも言える。それは私たちが大切にする自由度とか利便性の問題でもある。

 或る著名な芸能人が「世田谷のいいところは、ほっておいてくれる気風があるところ」という様なことを述べている。著名人ゆえの言葉であろうし、例えそうでない人も日常生活で“適度な無関心”というのが都市の魅力であろうことは感じているはずだ。
 しかし価値観の多様さ、自由度や利便性に個人的に浸っている間に、組織的な価値観に不意打ちを食らうこともある。だから“適度な無関心”というのも要注意だ。

 さて「世田谷ナンバー」については、昨年11月に東京商工会議所世田谷支部、世田谷区商店街連合会、公益社団法人世田谷工業振興協会の3団体が保坂区長に要望したことに始まる。その目的(効果)とは、

1.世田谷の知名度が向上し、世田谷ブランドを全国に発信できる。
2.知名度の向上により地域振興、産業活性化、観光振興につながる。
3.世田谷ナンバーをつけることで地域に対する愛着心の醸成、世田谷区民として誇りを高められる。

 率直な感想としては、すべて邪道ではないだろうか?

 そもそも産業活性化をナンバープレートに期待するなど世も末ではなかろうか。世田谷区は住宅都市であり、いつから観光都市化するようになったのだろう。しかもナンバープレート変更は2014年度以降、全員強制である。

  この全員強制は痛いなぁ、と感じる。これまで世田谷区では、やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなくていい、ただし公益上リミットなものでどちらかにしなければならない時は不本意であっても決めなくてはならないし、その場合は諦めるしかないという、暗黙の合意のような安心感がこの世田谷にはあったように思う。今回の件にどれほどの公益性があるのだろうか。

 世田谷大好き!はわかる。しかしそれを外に向かって表示することを是とする人もいれば、内心の問題だという人もいるだろう。目に見えるブランドもあれば見えないブランドが“粋”だと感じる人もいるだろう。

 産業活性化のためにナンバープレートに対する愛着やこだわりを全否定するようなことで、本当に世田谷区の産業が活性化して若者の就業が促進されたりするのだろうか。

 たぶん世田谷区のクルマは日本全国を走り回るだろう。しかしどこに行くのだろうか。事業系を除けば、そのほとんどが観光地か故郷だろう。観光地で世田谷を競っても何になるのだろう。故郷に帰って世田谷の知名度を上げて、故郷に勝る愛着なんてあるだろうか。

 ナンバープレートと言っても、取り付けるクルマはそれぞれ目的も意味も価格も異なるだろう。機能性だけで持っている人もいれば、衣服のように自己表現の一部だと捉えている人もいるだろうし、理屈抜きでコノ車が好きで堪らないという人もいるだろう。それぞれの価値観であり、他人の侵入や介在を許さない領域のはずだ。

 そしてナンバープレートにこだわる人もいれば、無頓着な人もいるだろう。実際、無頓着な人(つまりどっちでもいいという人)が案外一番多いのかも知れない。しかし無頓着な人も“適度な無関心”で済まされなくなる。

 「世田谷区民なら世田谷ナンバーが当たり前」という一見素朴な発想の中に強制性が伴うことで、住みづらい街になってしまう可能性があるからだ。この発想のゴールにあるのは、「世田谷区民の誇り」なるものと個人所有のクルマが結びつくことである。

 単純な話、世田谷ナンバーのクルマがろくに洗車もしないで走ることは、マイナスの知名度になるだろう。自分のクルマが汚れていても、ピカピカでもこれまでは「世田谷区民」を意識したことはないし、あくまでも乗っている人の評価でしかなかったものが、いつのまにか世田谷区の宣伝マンみたいな仕事を背負わされて意識しなくてはならない。余計なことである。

 自分の所有物(クルマ)が、世田谷区民の誇りの象徴として区民全体で共有され、あれこれと強制されてしまう世田谷区というのはどうなんだろう。

 世田谷区の魅力は住宅都市として“適度な無関心”あるいは何事にも寛容な街というものが必置ではなかろうか。その生命線を、できもしない地域振興とか観光振興と引き換えに断つことは、あまりにも短慮ではなかろうか。

 個人の嗜好の領域に行政が土足で侵入していることに気づかないのだろうか。人間の存在理由は、実は生活の細部に宿ることを知らないとは・・・。