2013/08/29

世田谷区の転出入からわかる実像

 平成22年国勢調査によれば世田谷区にこの5年間(平17〜平22)でどの自治体から転入してきたか、逆にどこへ転出したかがわかる。
 まずどこから来たか?最多は6538人の目黒区。逆にどこへ転出したか?最多は4779人の杉並区。移動の範囲を東京都に絞って数字を突き合わせてみたのが左上表の通り。隣接自治体での移動が多いのがわかる。次に実質的に転入者と転出者との差に注目したベスト10が以下の表。

 5年間(平17〜平22)に世田谷区に転入してきた元の自治体は目黒区、渋谷区、杉並区が3強で他を圧倒している。
 逆に世田谷区から5年間で転出した自治体は以下の通り。
 江東区が断トツで、町田市、調布市、狛江市と全体として多摩地域が続く。

 全体のトレンドとして、目黒区、渋谷区、杉並区からの転入があり、江東区および多摩地域に転出しているのが世田谷区の実像である。

2013/08/28

奇跡のスピーチ(必見!)

 小室淑恵氏(株式会社ワーク・ライフバランス社長)のTEDxTokyoでの著名なスピーチ。

 日本でワーク・ライフバランスの考え方はあまり根付いていない。それはまるで働くのを辞めろ、と言っているようであり、働かなかったらどうやって食べていくのか?という現実的な反論に打ちのめされてしまうからである。
 確かに、現状ではワーク・ライフバランスという“システム”はすべての業態に当てはまることではない。
 しかし今後、日本が世界の中で先進的な地位を占めるとすれば、このシステムが通用する業態転換を図らなければならないだろう。
 要は「知識集約産業」への転換である。(世田谷区をデザインするときにこの方向性は必須だろう)
 小室氏のスピーチは実に奥が深い。
 子育て、財政再建、人生の価値、世界にあっての日本の立場・・・これらが見事につながるから感動せずにはいられない。
 とにかくたった12分間耳を傾ければ、今後の人生観が変わるかもしれない。(最初の1分間は聞き取りづらいかも知れません。ちなみに小室氏とは一切面識はありません・・・)

住む理由 転出する理由

 平成22年国勢調査から、世田谷区内の町別で5年前(平成17年)と同じ住所の人たちの比率を自分で計算してみた。(左表数値は%)
 つまり、現在の住所に5年以上住んでいる人が町別でどれくらいいるか、ということである。(調査時点は平成22年10月現在)

 トップは岡本。岡本在住の67.3%が5年前も同じ住所に住んでいる。最下位は太子堂。なんと半分以下の41.8%しか5年以上同じ住所に住んでいない。

 いわゆる落ち着いた町、出入りの多い町ということになるのであろうが、印象的には太子堂は若者が多いのではないかと想像するが、そうではない。太子堂の平均年令は42.5歳に対して岡本は41.3歳と、岡本の方が若い。さらに65歳以上の高齢者比率は太子堂の17.2%に対し岡本は15.5%とこれも低い。(住民数は太子堂の約1万8千に対し岡本は約7千)

 区全体の平均では58%の人が5年以上同じ住所に住んでいる。(前回のブログでは5年前も世田谷区在住が67.9%と記したが、それは同じ住所+区内での転居者数の合計ということで多くなっている。つまり約10%の人は世田谷区内での転居ということ)

 地方自治は、その地域に住んでいることが前提である。といっても、国勢調査の一番古い大正9年(1920年)の記録で人口約4万人。戦前の昭和15年(1940年)で約28万人で、高度経済成長のさなかの昭和45年(1970年)で約79万人となっている。それからすでに40年経過して約88万人である。

 前回のブログでも国勢調査から世田谷区では5年間(平成17年〜22年)で約3分の1が入れ替わっている。
 問題は、人はなぜ世田谷区に住むのか?そしてなぜ世田谷区から転出していくのか?

2013/08/27

「脱原発、行って納得、見て確信」

 毎日新聞連載のコラム「風知草」で最近の小泉純一郎元首相の動向をつたえている。今月中旬、脱原発のドイツと原発推進のフィンランドを視察した小泉元首相は「脱原発、行って納得、見て確信」と、お得意のワンフレーズ感想。
 特にフィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」をみて元首相は「10万年だよ。300年後に考えるっていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」「今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。」全くその通り!というかそれがフツーの市民感覚であり、日本の国土を安全に後世代に伝えたいという思いにもつながる。
 しかし現実には自民政権は原発ゼロに向かっていない。つまり小泉元首相の考えと異なる。「今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ」この言葉は軽い言葉ではないと思う。国家千年万年の計に思いをはせた言葉だと思う。
 今の政治状況の中で、小泉元首相の何らかの“降臨”は“非常時”だけに必要なのではなかろうか。

2013/08/26

世田谷区は5年間で3分の1が入れ替わる

 世田谷区は、5年間で約3分の1の人口が入れ替わる都市である。これは今年6月に発表された平成22年の国勢調査からわかるリアルな数字である。
 さらに5年前の人口と較べて約3万人増加していることから、この5年間で約27万人が世田谷区に越してきて、約24万人が区外へ転出していったとも推測できる。(ただし正確には死亡者すなわち天国へ転出された方々もあるので、誤差はある。)
 
 5年間で約3分の1の住民が入れ替わる世田谷区、23区の中ではどのような位置にあるのだろうか。他の22区を同じ国勢調査から数字を引っ張りだして自分で計算した結果が左の通り。
 5年間で最も入れ替わりが少なかったのは江東区の23.9%、それでも約4分の1が入れ替わった。逆に最も多かったのは港区の53.2%、5年で半分以上の人口が入れ替わっている。
 だいたい30%台が一番多いようである。このことは調べてみてわかった意外な事実であった。実際、世田谷区ほど人口の移動が多い区はないと考えていたが、東京23区の中ではむしろそれほど移動の比率は高くない。へーという感じである。

2013/08/21

国家の粉飾

  8月21日の日経朝刊、経済教室に“行政のお家芸”ともいうべき数字トリックがあって、日本の社会保障もそこまできたかと嘆かざるを得ない。

 筆者の学習院大学の鈴木亘教授によれば、年金財政について、「相変わらず『年金は100年安心』という虚構の上に立っている」と述べ、その“証拠”として年金の「運用利回りを今後100年近くにわたって4.1%もの高利回りに設定するという『粉飾』をしている」というのだ。
 (もちろん1000兆円もの借金を抱え、国債の暴落でもあれば4.1%の高利回りも可能かもしれないが、そうなれば、それ以前に運用自体が破綻し、貨幣価値の下落により、手にする年金は紙くず同然になるかも知れない。)

 鈴木教授の言いたいことは社会保障全体の将来像について「何ら定量的な評価をしていない」ということである。

 行政とすれば、「定量的な評価」をすれば年金財政が破綻していることを認めることになる、だから非現実的な数字をデッチあげてでも、当面国民を安心させて、そのうち経済も良くなってどうにかなるだろう、という、官僚制特有の「先送り楽観論」である。

 国民からすれば、甘い夢に浸っていられれば越したことはないが、現実に年をとって高齢者となり病み勝ちとなり就業機会も少なくなってから、アテにしていた年金がパァですと言われたら、そちらのほうが残酷である。

 官僚制特有の「先送り楽観論」は「定量的な評価」を無視することによって成り立っているが、国民にすればことごとく「夢を見させて残酷な結末」に終わっている。

 「定量的な評価」或いは「定量的なデータ分析」とでも言い換えられるが、もちろんこれが万能だとは言えないが、政策的な判断として欠かすことはできないだろう。

 日本の財政はすでに、外から見れば“粉飾”の段階に来ているのではないかと思う。何かのキッカケで、バレたら、国債は暴落し、税金で食べている人たちを直撃するだろう。或いは税金によって維持されている社会保障関連の人たちは経済的に行き詰まるかも知れない。

 バレないうちに成長戦略とやらが一発逆転を果たせば良いが、実はこの成長戦略も「定量的なデータ分析」無視の「夢だけ先に見せて」という、いつものパターンで、どうやら結末は想定できそうである。下の記事は朝日の21日朝刊。ドイツ連銀では結末を見越している。

2013/08/05

世田谷ナンバー

「神は細部に宿る」という言葉を耳にしたことがあるが、実は行政の要諦も「細部に宿る」のではないだろうか。

 県並み、或いは県以上の人口を擁する世田谷区は、人口だけでは比べられない問題がある。価値観の多様さである。(ちなみに世田谷区より人口が少ないのは、山梨、佐賀、福井、徳島、高知、島根、鳥取の7県)
 例えば、山梨県の人口に占める他県の出身者と世田谷区における他自治体からの出身者の割合を想像してみよう。(たぶん)おそらく世田谷区では全国の県人会は存在するだろうが、上記7つの県ではどうであろうか?

 つまり世田谷区の人口の多さはそのまま価値観の多さにつながる。世田谷区という都市は価値観の多様さを受容しているとも言える。それは私たちが大切にする自由度とか利便性の問題でもある。

 或る著名な芸能人が「世田谷のいいところは、ほっておいてくれる気風があるところ」という様なことを述べている。著名人ゆえの言葉であろうし、例えそうでない人も日常生活で“適度な無関心”というのが都市の魅力であろうことは感じているはずだ。
 しかし価値観の多様さ、自由度や利便性に個人的に浸っている間に、組織的な価値観に不意打ちを食らうこともある。だから“適度な無関心”というのも要注意だ。

 さて「世田谷ナンバー」については、昨年11月に東京商工会議所世田谷支部、世田谷区商店街連合会、公益社団法人世田谷工業振興協会の3団体が保坂区長に要望したことに始まる。その目的(効果)とは、

1.世田谷の知名度が向上し、世田谷ブランドを全国に発信できる。
2.知名度の向上により地域振興、産業活性化、観光振興につながる。
3.世田谷ナンバーをつけることで地域に対する愛着心の醸成、世田谷区民として誇りを高められる。

 率直な感想としては、すべて邪道ではないだろうか?

 そもそも産業活性化をナンバープレートに期待するなど世も末ではなかろうか。世田谷区は住宅都市であり、いつから観光都市化するようになったのだろう。しかもナンバープレート変更は2014年度以降、全員強制である。

  この全員強制は痛いなぁ、と感じる。これまで世田谷区では、やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなくていい、ただし公益上リミットなものでどちらかにしなければならない時は不本意であっても決めなくてはならないし、その場合は諦めるしかないという、暗黙の合意のような安心感がこの世田谷にはあったように思う。今回の件にどれほどの公益性があるのだろうか。

 世田谷大好き!はわかる。しかしそれを外に向かって表示することを是とする人もいれば、内心の問題だという人もいるだろう。目に見えるブランドもあれば見えないブランドが“粋”だと感じる人もいるだろう。

 産業活性化のためにナンバープレートに対する愛着やこだわりを全否定するようなことで、本当に世田谷区の産業が活性化して若者の就業が促進されたりするのだろうか。

 たぶん世田谷区のクルマは日本全国を走り回るだろう。しかしどこに行くのだろうか。事業系を除けば、そのほとんどが観光地か故郷だろう。観光地で世田谷を競っても何になるのだろう。故郷に帰って世田谷の知名度を上げて、故郷に勝る愛着なんてあるだろうか。

 ナンバープレートと言っても、取り付けるクルマはそれぞれ目的も意味も価格も異なるだろう。機能性だけで持っている人もいれば、衣服のように自己表現の一部だと捉えている人もいるだろうし、理屈抜きでコノ車が好きで堪らないという人もいるだろう。それぞれの価値観であり、他人の侵入や介在を許さない領域のはずだ。

 そしてナンバープレートにこだわる人もいれば、無頓着な人もいるだろう。実際、無頓着な人(つまりどっちでもいいという人)が案外一番多いのかも知れない。しかし無頓着な人も“適度な無関心”で済まされなくなる。

 「世田谷区民なら世田谷ナンバーが当たり前」という一見素朴な発想の中に強制性が伴うことで、住みづらい街になってしまう可能性があるからだ。この発想のゴールにあるのは、「世田谷区民の誇り」なるものと個人所有のクルマが結びつくことである。

 単純な話、世田谷ナンバーのクルマがろくに洗車もしないで走ることは、マイナスの知名度になるだろう。自分のクルマが汚れていても、ピカピカでもこれまでは「世田谷区民」を意識したことはないし、あくまでも乗っている人の評価でしかなかったものが、いつのまにか世田谷区の宣伝マンみたいな仕事を背負わされて意識しなくてはならない。余計なことである。

 自分の所有物(クルマ)が、世田谷区民の誇りの象徴として区民全体で共有され、あれこれと強制されてしまう世田谷区というのはどうなんだろう。

 世田谷区の魅力は住宅都市として“適度な無関心”あるいは何事にも寛容な街というものが必置ではなかろうか。その生命線を、できもしない地域振興とか観光振興と引き換えに断つことは、あまりにも短慮ではなかろうか。

 個人の嗜好の領域に行政が土足で侵入していることに気づかないのだろうか。人間の存在理由は、実は生活の細部に宿ることを知らないとは・・・。