話題の書。「要するに、現存の体制は戦前・戦中さながらの〈無責任の体系〉以外の何ものでもなく、腐敗しきったものと成り果てていた。」と著者は言う。
3.11以後の政府の無能ぶりを、あの無謀な戦争へ突き進んだ姿に重ねて、国民は「侮辱」の中に生きている、と説く。簡単に言えば国民は政府に舐められている、ということだろう。
8月16日の読売新聞に堀場製作所の最高顧問の堀場正夫さん(89歳)が戦争末期のことを述べている。「終戦までの半年間は(国は)死に体のようなものでした。負けるのを少しでも先延ばしにしていた感じです。だからといって、どうせ負けるなら早く降参しようじゃないかという空気もあまりなかった。」
もともと戦争を開始したのも、また終了させるのも、責任者不詳のような国だったところに、「決めてくれる」強い国に負け、占領されてしまった、というのが戦後のスタート。誰かが終わらせてくれたという意味で「終戦」同様に、国民が被った大損害もあたかも自然災害のような認識でいいのだろうか。二度とこのような惨禍を起こさないための総括が行われていない。
ところで、15日の戦没者追悼式での安部首相の式辞の中で、「戦没者の皆様の、貴い犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。」というごく当たり前の、いつも使われているであろうフレーズがある。戦没者というのは軍人、国民すべての犠牲者をさすとしても、冷静に考えて見れば、ちょっとおかしい一文ではないか。
そもそも、当時でも米英との戦争は無謀だったと考えられていた。つまり昭和16年の真珠湾攻撃にはじまる太平洋戦争をしなかったら、現在の日本はどうなっていただろうか。もちろん対日経済制裁という締め付けがあったにせよ、その後の4年間で戦没者の数を上回る被害が出たであろうか。日本国の国境線も現在より狭くなっていただろうか。仮定の話だから何の意味もないかもしれないが。
例えば上記、堀場氏が述べたように、負けるのを半年も先延ばしにしていなければ、東京大空襲を始めとする本土空襲や、広島、長崎の戦没者は、救われたはずではなかろうか。(これらは戦争というものではない虐殺である。)
戦争をし、負け、国土を失い、多数の国民を死に至らしめたから「私たちが享受する平和と繁栄がある」というのは、もはや意味不明である。
まず、政府は国益をそこねた戦争をしたことを、そのことにより国民に多大なる犠牲を強いたことを謝罪することから始めるべきで、謝る側と、謝られる側が明確になっていない、それどころか同じ側に立っているとすれば、それこそ永続敗戦論の著者の言う、無責任の体系が今日も続いているのである。このことは対外的な責任とは別次元のことである。日本の政治の質を高めるためにである。