都議会のセクハラやじに関する“決着”はまたもや、無かったことにして今後は気をつけようという方向に。こういう“決着法”が日本に溢れている。
原発事故も未だに原因と責任の所在が不明のまま、まるで無かったかのように再稼働に政府は動いている。
もっと言えば、敗戦を終戦と言い換え、戦争の総括さえしていない。その戦争においても次々に戦況が悪くなっているにもかかわらず、それを無かったことにして精神論で戦争を継続した・・・。
解釈改憲も同様。そもそも解釈など無かったことにしようとしている。こんなことをしていれば、何の教訓も汲み取ることもできない国民や国家になってしまう。同じ失敗を繰り返すだけである。
このどうしようもない習性は、おそらく狭い土地に縛られて主として農耕を生業として生きてきた、かつての日本の“知恵”だったのかもしれない。全員で一斉に田植えをし、全員で稲刈りをする生活上の価値観は「みんな一緒」や「和」が絶対だったのだろう。「対立」をもたらすものは排除しなければ農耕という共同作業は成り立たなかったのだろう。さらにそこから「対立の芽」は摘み取る、無かったことにする、忘れる、という解決法が編み出されていった・・・。典型的な「ムラ社会の論理」である。
都議会で合理的に検証してみよう、という発想は今の時代、生まれないのだろうか。
もっとも、ヤジを受けた都議の立ち位置も不明である。断固戦うのではなかったのだろうか?この人もまた、知名度を上げた「過去の自分」は無かったことにしてくれと切望しているとのこと(週刊誌報道)。案外、自民党の発想と似ているのかもしれない。