6月29 日、日経夕刊のグラフィックデザイナーの佐藤卓氏のエッセイ(著名人の人生を振り返り、ターニングポイントを紹介するショート版「私の履歴書」)を読んでなるほど、と思った。
「ものが売れない時代になると、『付加価値』の重要性が叫ばれる。しかし、私はこの『付加価値』を頭から否定している。これを言いだしてから、日本のもの作りはダメになったとさえ言いたいくらいなのだ。」
「『価値』とは、モノの外側に付け足していくようなものではない。」
この言葉から連想したのは庁舎問題のことである。
調べてみたら、現庁舎が著名な建築家の設計であった、という一連の流れは、庁舎の価値とは別のいわば、『付加価値』に過ぎない。
あるいは定着した風景というのも半世紀を経て備わった『付加価値』である。
庁舎問題の本質は庁舎の価値が失われている、というところから論じられる問題である。
老朽化・分散化・首都直下に未対応、中庭から避難広場の創設等々、特に非常時への未対応という部分が庁舎の価値からすっぽり抜け落ちているのが現状である。
庁舎を芸術品のような視点から眺めるのは自由であるが、それが可能だとしても庁舎の本質とは別の『付加価値』でしかない。
本質的な「価値」と『付加価値』とを同じ土俵で論じられるとしたら、それは、とてつもない財政的余裕と時間的余裕のある時である。(そんなものは地方自治体にないので、「価値」優先、『付加価値』は意見があった程度に留めるというのが現実的選択)
現区長の特徴は、財政的余裕と時間的余裕を掛け合わせて考えることができない点ではなかろうか。何事にも。遅いことでは23区随一ではなかろうか。