2010/09/28

正論か知恵か

今回の中国との衝突では、前原氏が我が国としての正論で突っ走っている、と読み取れる記事が28日の朝日である正論は正論である。当然の考えである。そこで思い出したのが、『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』香西秀信著(光文社新書)の一節である以下、引用すると
だが、力関係が対等でない者の間で、そもそも対等な議論が成り立つのだろうか。例えば、ある会社の入社試験の面接で、人事担当者と受験者が、その会社の製品のCM内容をめぐって議論になった。人事担当者は議論を打ち切り、「これはわが社の方針なのだから、それに従えないのなら入社は諦めてもらう」と宣言した。これに対し、大学でディベートで鍛え上げたその受験者は、相手の非論理的思考を非難し、こう金切り声をあげた。「それは虚偽だ、詭弁だ、『力に訴える議論』だ!事柄の是非を突き詰めて議論せずに脅迫で自分の意思を通そうとするのは思考の停止だ!」ーーーもちろん、人事担当者は「ああ、詭弁で結構だ」と彼を退室させようとするだろう。少なくとも私ならそうする。
よくありそうな、想像できる話である。問題は冒頭にある「力関係が対等でない者の間で、そもそも対等な議論が成り立つのだろうか」という点であり、著者は後述で「われわれが議論するほとんどの場において、われわれと相手との人間関係は対等ではない」と喝破しているくだけた言い方をすれば、青二才の頭でっかちだけでは世の中相手にされないよ、といったニュアンスだろうか対等な関係が比較的、存在するのは学生時代までだろう。そして社会のなかにあって対等な関係とまではいかなくとも、対等な地位というものに議員というものがある。議員同士は対等である要は社会体験の乏しいまま国会議員になって、果たして、国家の枢要な地位は務まるのだろうか、という些かの危惧である国内では原則的に対等な議論ができたとしても、対外的に国力も国情も思想も異なる相手に対等な議論は可能だろうかということである不可能なら、そこには知恵が求められる。賢さが求められるのではないかもちろん、知恵は過ぎれば悪知恵と言われ、賢さも過ぎれば悪賢いと言われるおそらく、前原氏が対極の人物と見る小沢氏は知恵や賢さにおいて特出していたのだろう。しかしながら、その達者な知恵や賢さをおカネや利権にも使ったからこそ国民の嫌悪感を大きく刺激したのだろう小沢氏に惜しまれるのは、湧き出る知恵や賢さをカネに係わることに一切振り向けるべきではなかったということである。純粋に知恵や賢さを政治のみに用いていれば、国民の支持の度合いもかなり変わっていたようにも思う。