2010/03/15

畦畔(けいはん)問題のそもそも

■畦畔(ケイハン・あぜ道)の問題の起源は明治時代にさかのぼる■今日、普通に「土地の所有権」と言っているが、そんなに古くからある感覚(権利意識)ではない。特に農地に関しては明治に至るまで「所有」という感覚は薄い■ましてや江戸時代、農地の売買は禁止と決まっていた。さらに水戸黄門ではないが、殿様の命令は絶対である。領民にとって所有意識どころかあらゆる権利意識は殿様次第という不安定な時代だった。たった140年ばかり前のことである■そういう時代からの大改革が明治になって行われた。地租改正である。地租改正とは日本史で習った記憶はあるが、そのリアリティまでは知らなかった。その後の土地本位制の日本を考えるととてつもないターニングポイントだったと思う。その地租改正については2005年5月に放送されたNHKの「明治 税制改革」が詳しい(その部分をアップ)
 
■要するに地租改正とは廃藩置県で大名や殿様が消え、中央集権国家になることで、国家とともに国民が誕生したというエポックメイキングな出来事である■自分の農地の所有を国家が認める代わりにその農地に相当する税金を払えというのが大まかな流れである。しかしその過程は複雑かつ内乱に近い大紛争を経ている が、ほとんど伝えられていない■大紛争の部分を除いて簡単に言えば、農民にすれば米の生産性がある土地は所有したいが、生産性のない土地は持ちたくない。 この心理が現在に至る畦畔(ケイハン)問題の核心である■具体的にはこういうことである。田んぼの「田」の字を考えてみるとわかりやすい。畦畔(ケイハ ン)とは「田」の字の中の「十」の部分である。この部分は畦畔(ケイハン)であるから米の収穫はできない。農民とすればこの「十」の部分の面積は所有から除き たい、そうしなければ余計に課税されてしまうからである■そこで全国の農地から「田」の字の「十」の部分の所有権を申請しなかった■当時の政府は国土を 「官有地」と「民有地」と単純に二分したので、所有権の無い土地はすべて「官有地」になった。つまり「田」の字の「十」の部分は「官有地」になってしまっ たのである■ただし農業は「田」の字単位で営まれていたのでその中の「十」の部分がたとえ「官有地」であっても誰も関心を寄せなかったのだろう。そのこと がますます曖昧にしていく原因となる■その後、この状態を引き継ぐ形で土地登記制度へ移行していく。そして、農地が農地として利用されている間は、まだ問 題は表面化しなかった■しかし戦後、土地利用が多様化するなかで、例えば世田谷区のようにほぼ全域宅地化すると「田」の字の「十」の部分は問題となる■そ もそも農地の規模と宅地の規模はケタが異なる。農地にあっては些細な「十」ではあっても宅地とすれば結構な面積となる■さらに農地の形態が果たしてもとも と「田」の字であったのか「目」の字であったか、はたまた「日」の字であったか、昔の記憶が不正確なまま宅地化が進められると「官有地」即ち「国有地」の 位置は一層わからなくなる■世田谷区の道路は迷路だとタクシーの運転手さんは言う。現在でも地域によってはその通りである。それは農道のまま区道にしてし まったからである。そしてその周辺には畦畔(ケイハン)がある可能性が高い。(参考文献「明治国家と近代的土地所有」奥田晴樹)